はだかのハッタツ

AS女の外付けHDD

アスペ女の生い立ち(出生〜小学校卒業まで)【生い立ちとアスペ】

 

私の生い立ち(出生~小学校卒業まで)について書いてみたよ♥

長文かつアスペ的視点炸裂(要はめっちゃ認知歪んでる)なのでご注意願います!

 

基本情報

  • 90年代生まれ
  • 女性
  • 発達障害と診断されたのは中学2年生夏ごろだが、医師・親からの告知は受けず 
    育った
  • 先延ばしグセがあるという特性からか?進路を決めかねていた23歳・大学5年生時(しかも1留)、親より告知を受ける
  • 24歳で中学生当時の主治医より改めて告知を受ける

・・・現在に至っています。



出生~乳児時代:

 

とにかくよく泣く子供で寝ている時間が少なく、母は大変苦労したそうだ。離乳食を与えるスプーンをある日プラスチックからステンレスのものに変えた時、スプーンが唇に触れた途端めちゃくちゃびっくりしていたらしい。

話し始めるのが早く、2歳になる頃には今と変わらないような調子で母と会話していたのだとか。

恐らくCMで覚えたのだろうが、街中のHITACHIやTOSHIBAなどの英字ロゴをすらすら読んでいたので母は驚いたとのこと(単なる親バカではないのか?)。

 

保育園児時代:

 

3歳で保育園に入園。とにかく内向的で、皆の中心となるようなタイプの女の子(今後も登場するのでAとする)にとってはカンに触る存在だったらしく、つまはじきにされたと思うと遊びの仲間に入れてくれたり、振り回された(これは小学校卒業まで続く)。

魔法少女アニメも好きだったが戦隊モノも好きだったので、男の子とよく遊んでいた。一人ぼっちとなった時には妹もよく遊んでくれた。「誰も遊んでくれないから保育園に行きたくない」と言ったり、朝送り届ける際に車の中で大泣きして大変だったようだ。

読書はこの頃から好きで『かぼちゃ人類学入門』という絵本を特に好んで読んでいた。

引越しに伴い2回保育園を変わったが(同県内。最後の保育園は最初の保育園の隣町にあった)、どこでも似たようなものだった。最後に通った保育園では「友達が欲しいわけではないが、いないと先生や親から変な目で見られ、心配をかけるので無理をしてでも友達がいるように見せかけなければ」という考え方を身につけ、中心的な存在の女の子の仲間に入れてもらうため必死だった。

「周りの人から奇異の目で見られることがものすごく苦痛だ」という感覚はこの後20年近く続く。

 


小学生時代:

 

6年間を通して→社交的で、末っ子である父親に私が人付き合いが苦手であることがばれ「そんなだから友達がいないんだ」「友達がいるなら家に連れてきてみろ!」と家から引きずり出されたり、私がクラスメイトにキツいことを言われたと知ると「お前は実際そうなんだから言われて当然だ」としつけられ?ていた(今思うとクソみてーな親ですね……)。

また「お姉ちゃんなんだから妹の面倒をみるのが当たり前だろう!」「お前はいつも妹に意地悪をする!」と叱責され続けた。

母も末っ子で「Aちゃんはいつも妹を連れて歩いているのに、どうしてあんたは……」と私を叱責した。これらが原因で妹と不仲になった。

おねしょが治らなかったので、中学年までは夕食後水を飲むことを禁じられていた。高学年には落ち着いたが、中学2年生で一度してしまった時は愕然とした。

勉強は教科を問わずよくできる方で、予習復習をせずともテストはほとんど100点だった(ただし公立小学校内での話。のちに通う学習塾で挫折を経験する)。
通知表に何度も「感受性が強い」と書かれた。

 


1~2年生:

 

やはり内向的で、ゲームボーイポケモンに熱中していたこともあり、女の子より男の子と遊ぶ方が多かった。

放課後には児童会に通っており、そこでまたAの機嫌を損ねてはいけないと、目立たないようにと気を張っていた。新たにBという気の強い女の子が児童会に入り、AとBが親しくなったため、二人に振り回されることとなった。ただし特にAとその妹とは、6年間を通してよく遊んだ。

2年生の頃はCというこれまた気の強い女の子に目をつけられ、散々だった。

給食当番でトレーを運んでいたら階段で躓き、トレーに指を挟んで外科送りになったこともあった。よく転んだり躓く私を見かねてか、担任の先生から「休みの日にお父さんと散歩にでも行ったらどうか」と言われたりもした。この先生は「あなたはアイデアマンだね!」と誉めてくれる優しい先生でもあった。


3~4年生:

 

ABと同じクラスになる。この頃の記憶は薄いので書くことがあまりない。後述するグループの二人とも、ABとも割とよく遊んでいたと思う。

3年生で町内の学習塾に通い始める(父も小学生時代ここに通い、同じ先生のもとで学んでいた)。クラスメイトであり、先生の娘で塾に誘ってくれた女の子とは同じ病院で生まれており、普段から同じグループとしてよく遊んでいたこともあって塾では楽しく過ごせた。もう一人塾に通っていた女の子も同じくクラスメイトで、いつも一緒の三人グループという感じだった。

 


5~6年生:

 

またABと同じクラスになるが、グループが違っていたし児童会に通わなくなったので少しは楽になった。5年生になってできた友達二人とアニメ・漫画について語り合ったり、二次創作小説やイラストを見せあって遊んでいた。

しかし、Bからは「調子に乗りすぎだ、ウザい」というような手紙を寄越したと思ったら「優待券があるから映画を観に行こう」とBのお母さんの車で映画を観に連れて行ってくれたり「電車に乗って近くの街に遊びに行こう」と誘ってくれたりと言動に一貫性のない「絡み」が続いた。

5年生の後半のことだったと思うが、Aが同じ塾に通い始める。私はAに嫌われないよう、いつもお菓子を買って持って行き、一緒に食べていた。Aは「いつも貰って、悪いよ」と言っていたが、私はAの気持ちより自分がいじめられないよう身を守ることを選んだ(今思えば、こうしていつもびくびくと他人の顔色を伺っている所がAやBの気に障っていたのかもしれない)。

6年生になるとその塾で出される数学問題の難易度はぐんと増し(国語や英語については変わらずできた)、ついには解けなくなった。先生に「どこが分からないんだ」と聞かれても答えられなかった。皆が解けているのに、自分だけが解けていないという状況に耐えられず、あろうことかAの答案を覗き見るようになった(我ながら本当に卑怯だと思う)。当然Aにもばれ「見ないで」と言われるようになり、答案用紙に何も書けなくなった。

父は宿題など見てくれなかったし、母が見てくれたのも低学年の頃までだった。年上の友人もおらず、誰にも聞けなかった。

恐らく6年生始め頃のこと、またいつものように問題が出され、解けなかった私は答案用紙の余白に「できるわけないだろー」なんて落書きをしてしまった。答案用紙を、なぜかもう使わないプリントだと勘違いしたのだ(今でもなぜだかわからない)。当然先生は皆の前で私を叱り「この塾に来た時の君の本読みは素晴らしかったんだぞ、なのに……」と落胆させてしまった。

もう限界だった。自分が至らないから一人だけ問題が解けないことも、自分の過失で叱られたことも分かっていた。ただ「皆の前で晒し者にされた」という感覚が頭から離れなかった。

親に泣きながら「塾を辞めたい」と申し出た。父は「自分がやりたいと言ったことから逃げるな!」と怒り、母は「Aちゃんとうまく行ってないから辞めたいんじゃないの?」と心配してくれた。いつからか分からないが、母には私とAの関係はお見通しだったようだ。

結局塾を辞めることを許され、その後の小学校生活は二次元オタク仲間と比較的穏やかに過ごすことができた。

 

 

 

・・・今思うと私めちゃくちゃよく頑張ってたじゃん!!(自画自賛

家でも学校でも過剰適応とかできないに決まってるのにマジでRunning on emptyしてたんだな〜〜そりゃ中学でガス欠起こすよ、、、

でもそれが当たり前だと思い込んじゃってたんだよなぁ……今じゃ立派な孤立型+尊大型わがままアスペに退化しちゃってるんだけどどうすりゃいいの?☺孤立型優位だった時はまだ社会適応できてたけど最近尊大型が幅きかせてんだけどどうすりゃいいの??????☻

 

更に黒歴史を重ねる中学時代以降のことはまた別の記事にて書けたらいいな(願望)。